メゾ ピアノディレクター
山本 絹子
1988年ブランドデビューより
メゾ ピアノのデザイナーとして就任。
現在に至る。
メゾ ピアノディレクター
山本 絹子
1988年ブランドデビューより
メゾ ピアノのデザイナーとして就任。
現在に至る。
Episode 1
メゾ ピアノ創立35周年
メゾピアノが35周年を迎えました。まずは、どのようなご感想でしょうか?
山本ディレクター(以下Y):「その長さに実感があまりないのですが、昔の資料を出してみるとさまざまなことをやってきたなと思います。良い時代にデビューができて、今では考えられないような贅沢な物作りをさせていただいたり、店舗展開や販促物も含めて、すごく有難いと思っています。ここまでデビューしてからずっと続いてるブランドって、あまりないんですよね。初めから今までこのブランドにずっと関わらせていただけることに本当に幸せだなと思っております」
35年前のデビュー当時はどのような時代だったのでしょうか?
Y:「1988年がデビューですが、当時、日本も色々ファッション文化が変わってきた時代でした。80年代からパリコレクションに日本のデザイナーたちが進出した時代で、それまではファッションは西洋の模倣的なものが多かったのですが、日本独自のデザインを世界に発信できるようになった時代です。その中で、日本ではDCブランドというデザインに特化したブランドが多く出現しました。それらのブランドを好きな親が、自分の子供にもデザイン性が高い服を着せたいということで、さまざまなブランドが子供服を立ち上げた時代です。当時、社会的に少子化が進んだのも背景にありますね」
デザイン性が高くて高価な子供服も注目されてきたのですね?
Y:「そうです。また、雑誌やTVなどマスメディアも発達しまして、子供たち自身がファッションを見る機会が増えたと思います。自分もあの服を着たい、周りにも可愛いと言われたいと。そんな時代の中で、ナルミヤインターナショナルはメンズ服を作る会社だったのですが、子供服にも参入しようということになりました。創業者は、アートやポップアートが好きな方で『絵画やグラフィックなどを立体的にして子供服を作れないか』と。試行錯誤している間に、子供服も面白いから女の子の服を作りたいという話が持ち上がったらしく。そこで私が呼ばれたのです」
どのような経緯で山本ディレクターさんに
お話が行ったのでしょうか?
Y:「もともと別の会社で女の子のカジュアルな服を作っていたのですが、私が知らないうちに友達が人材バンクに私を登録していて、いきなり連絡がきて『はい?』みたいな感じで(笑)。じゃあせっかくなので話だけ聞きにいこうかなと思って伺ったら創業者に『どういうの作りたいですか?』と言われて。素直に作ってみたい服のプレゼンテーションしましたら『じゃあ、やりましょう』ということで。そうやってメゾピアノはスタートしたのです」
友達が勝手に登録しなかったら今のメゾピアノはなかったのですね。
その時のデザイナーとしての強みは何だったのでしょうか?
Y:「前の会社には10年ほどいたのですが、1年目の時から服作りに関するほぼ全てのことを経験させてもらったんですね。高級ではなくカジュアルでしたが、素材の選定から図案、パターン、プリント、製法などなど服作りを一貫して自分でやれるところでした。他にもマーケティングのことから商談まで『そこまでやりますか』ってくらい。私が採用になったのはその経験があったことと、あとは服が好きで、いい服をたくさん着ていたというのもあって。私も上質な子供服を作るというのでぜひやりたいなと思ったのです」
Episode 2
メゾ ピアノ誕生
実際にメゾピアノをスタートしてからはいかがでしたでしょうか?
Y:「はじめは工場から何から自分で探すことになり大変でしたね(笑)。メゾピアノは今と違って、デビュー当時は可愛いよりも、お洒落でクールといった雰囲気でした。おしゃれのピラミッドのてっぺんにいるお客様をターゲットにしたので。価格が高くてもいいから、素敵なものを作ろうと。それで、はじめのカタログも海外のファッション誌『VOGUE』のように撮影しようと。モードっぽく暗めでかっこいい写真です。そうしたらイメージと違った創業者からの指示で、撮影し直したのを覚えています。メゾピアノは当時、フォーマルシーンやピアノの発表会、パーティーなどのオケージョン服として評価を受けました。その頃のフォーマルといえば、ベロアのワンピースなどベーシックなものが主流でして、華やかなものが少なかったのだと思います」
現在とまた違った高級感だったのですね。
Y:「そうです。ギフトボックスも鍵盤のデザインだったり、ショップがオープンすればブランド名にちなんで店舗にピアノを置き、ハンドルだけ回るバスのような飾りも置きました。それに、店舗の壁には薔薇の絵を手描きしたり。これらは社長のこだわりでした。梅田阪急が一号店だったのですが、店舗オープン準備を、夜中に工事をやっている最中にグラフィックデザイナーが絵を壁に描いていて、私たちは段ボールから服を出してという。どの店舗でも行って作りましたね。香港や韓国のロッテ百貨店など海外店舗もあったのですが、その時もオープン準備等も行きました。今も残っている当時のスタッフもいます」
店舗も豪華だったのですね。
Y:「ピアノの上にはフランス人形を2~3個置いていて。毎シーズン、お人形の服を作っていました。あとは売らないのですが、キャビネットを置いてそこにフランス製のリボンや大きい本、グラスの中にはフランスのボタンなどなど。他にもパリの広告塔のようにくるくる回る什器を置いたり。そこまで作り込めるブランドって少ないと思います」
デビュー当時の尖ったモードから少しずつ可愛い方向に進んでいったのでしょうか?
Y:「はい、フォーマルなものだけ作っていたのですが、可愛らしいカジュアルなデザインも増えてきまして、デニムジャケットなども作ることもあったり、少しずつ幅が広がっていきました。店舗も増えつつ、最初はトドラーサイズだけだったものが、ベビー単体のものも作るようになりました。雑貨もブームだったのでヘアポニーなども作ったり。あと、うちはニットも特徴がありまして、ニットのポンポンなど立体的なデザインを作っていました。手作業でしかできないのですが、当時はそれをやってくれる方々がいたんです。また、グラフィカルなカットソーでいかに立体にできるかというのもありましたね」
当時は立体的な服を作っているところは少なかったのでしょうか?
Y:「ポンポンやリボンなど立体的だととれてしまうので。普通なら、じゃあ付けないとなるじゃないですか。ただうちの社長はアートがわかる方だったので作ろうと。世の中にないものなので、人気がありました。そんなこだわったデザインだったので、工場にサンプルを作ってもらうにも、パーツは多いしたくさん断られたりしましたね。ただ、質が高いものを作り続けていたことで、ファッション好きで価格にこだわらない方々に支持されていました。頭の上から靴までトータルファッションができるように取り揃えていましたが、そういった方々は購入される金額が大きいので、ノベルティーをもらえるスタンプカードがすぐたまるという(笑)。あとはデザイン数も多かったですね。バラエティーに富んでいるので、先月来た同じお客さんがまたいらっしゃった時に違うものが買えるという」
お子さん自身がファンで店舗に来ることも多いと思いますが、
どんなお子さんが多かったでしょうか?
Y:「幼稚園から小学校にかけて“私”が目覚める時期で。今もそうですが、“誰が何を言おうと私が思う一番可愛い服を着たい”という意識の子が多いと思います」
では、デビュー当時から変わらないこととは何でしょう?
Y:「形へのこだわりです。子供の体型はお腹が一番出ているんですよ。極端に言えばキューピーさんみたいな。まっすぐなボディで綺麗なシルエットじゃダメなんです。子供の体型に対してシルエットを綺麗にみせるには、さまざまな操作が必要だと私は思ったんです。一般的な子供服はまっすぐなものが多い中、あえてダーツを入れたり、少し肩パットを入れたり切り替えの位置を意識したり。スカートには生地の分量を多くしたりペチコートを加えたり。そうすることでウエストが細くみえたりお顔がスッキリ見えるように調整しています。お客さまから『メゾピアノを着るとスタイルが全然違うのよ』というお言葉をいただくこともあり、それは嬉しいですね」
当時から変わらないブランドのコンセプトは何でしょう?
Y:「ヨーロピアンテイストのお出かけ服です。それを表現するために色へのこだわりもありまして。もともと、子供服の生地は生成りがほとんどなんです。それを一度ブリーチしないと白くならないんです。その上に色をのせないと綺麗な色が出ないんですよね。そのため、世の中にそれまであったピンクはちょっとくすんでいたり。うちは全部ブリーチしてから色をのせるようにしていました。一番最初の色のコンセプトは、ヨーロッパのお菓子でドラジェをイメージしたものでした。アーモンドに砂糖がけした、白やピンク、ブルーといったパステルカラーのお菓子です。マカロンよりもうちょっと透明感があるものですね。それで、白、ピンク、ブルー、ミント、赤という色でスタートしました。日本は染色技術も優れていますが、ただ洗濯洗剤の技術も素晴らしくて(笑)。『ここまでやると洗濯で色が落ちる』というギリギリのラインを狙ってきました」
メゾピアノの印象的なピンクもこのように作られていたのですね。
Y:「おそらく、世の中にある綺麗なピンクの最初は私が出したと思っています。色に関してはすごくこだわっていまして、特にピンクは想いもあって。例えば、一見真っ黒な服があるとして、ただステッチや裏地などどこかしらにピンクは入れています。服からショッパーなど全てのものにピンクは使用していますね」
その納得のピンクを出すにもやはり試行錯誤があったのでしょうか?
Y:「そうなんですよ、工場とやりとりして何度も違う違うといいながら、『これが限界です』と言われても『いや限界じゃない、できるはず』と言いながらこれまでやってきました」
では、デザイン面で他にはどのようなブランドでありたいと考えてこられましたか?
Y:「根底にあるメゾピアノらしさという軸は残しながらも、世の中のトレンドを少しずつ交えながら、時代によって変わっていくブランドにしたいなと思ってきました。これは一番こだわってきたことかもしれません。それに、うちはのっぺりとしたものは一つもないよと。必ず、どこかにレースやフリル、リボンが付いていて。時代によって大きさや素材、形、付け方は変わるかもしれないけれど。でもそうやって時代にあわせたものじゃないと私はブランドが残らないと思ったのです。私も色々な格好をする人なのでそっちの方が楽しいなというのもあります(笑)。定番というのが苦手でして、面白いものが元々好きというのが根底にあるのかも」
Episode 3
プライベートとブランドの今後
ヨーロピアンテイストということで、ヨーロッパの文化からかなり影響を受けているのでしょうか?
Y:「そうですね、昔は年に2回ヨーロッパに出張に行かせてくれていました。パリ、ミラノ、フィレンツェ、ロンドンなどをまわって10日間くらい。そこで文化にふれて、服や小物をみたり買ったり。いいものがあるんですよ。私はレースが好きなので、フィレンツェでたくさん買っていました。ローマ帝国の遺産といいますか、安いものでも本当に質が高いんですよ。スカーフでもネックレスでも素敵で全然違う。百聞は一見にしかずで、アート性が高いんです。日本とは違って、例えば美しいけど色落ちしそうという服でも買いたい人が買えばいいという文化。ブランドがものすごく元気があった時期でもあって、どこに行っても面白かったです。一緒に行ったスタッフも含めてこの経験は財産ですね。こういう経験がデザインにも反影されていると思います」
これまで作ったものの中で、珍しいものは何でしょうか?
Y:「自転車にヘルメット、メガネ、裁縫セットに、書道セットなど。文具は多いですね、鉛筆から何から。シャンデリアや家具、カーテンも作りました。」
それではここから山本ディレクターのプライベートな部分を伺っていきたいのですが、休日はどのような過ごし方をされますでしょうか?
Y:「美術館には頻繁に行きます。最近感動したのは、DIORの回顧展です。最高ですね、2回見に行きました。美術館やエキシビジョン、イベントなどいち早く行って、スタッフにここでこんなのやっているから見に行ってみて、など発信しています。あとは、実はサッカーも大好きで。パリサンジェルマンが来たときにもチケットをいただいて観戦にいきました。テレビでもサッカー見ますし好きなんです。スペインリーグが好きなんです」
サッカーは意外ですね。
Y:「他には、仏像も好きですね。お寺とかも好きで奈良に行ったり。音楽も好きでライブにも行きます。パイプオルガンのものからロックまで。ヴァンヘイレンが好きだったり、アレキサンドロス、宮本浩次も、斉藤和義も……もう大変。他には習字も好きで土曜日の朝に電車で湘南の教室に通っています。もうじっとしていられないんですよね」
洋服は小さい頃からお好きだったのでしょうか?
Y:「お人形さんが好きでしたね。やたらと洋服を買って、収集癖があって、綺麗に並べるんです。他にもハンカチや鉛筆、消しゴムとか集めていて、使わない保存用と使う用を分けたりして。欲張りなんですよ、多分。Aを買ったらBを買う。どんどん横に広がっていって。小学生になったらやらなくなるかな、中学生になったら?と思っていたら、どんどん幅が広がっていって今も。どうしてこんなにあるんだろうってくらい。帯締めもいっぱいあるしね」
個性的な愛用品などたくさんお持ちですが、どこで見つけたり購入されているのでしょうか?
Y:「例えばこのピカピカの名刺ケースはアメリカ出張したときに、セレクトショップのキットソンで見つけた1点もの。キラキラしていて『私のために作られた』と思って、買わなきゃと(笑)。海外もふくめて動いた先でビビッときたものを一期一会的な感じで買ってきます。」
好きな食べ物は何でしょうか?
Y:「一番好きなのは、蒸したプリン。イタリアンレストランで出てくるような甘くないカスタードプリンです。カラメルが濃くてちょっと焦げてて。紀伊国屋のカスタードプリンはそれと味が近いんですよ。あまり肉は食べないのですが、動物性食品で摂取するのはほとんどが卵で。あとは、あんこと栗が好き。よくデパ地下に行きますね。例えば渋谷に行ったらあのお店のあれを食べるとか行きつけの店があるんです。美味しいものを沢山食べます。何でも欲張りなんですよね、死ぬまで治らないのかな(笑)」
それでは、ブランドの話に戻りますが、ブランドを継続していくのは難しいものだと思います。そのモチベーションになっているのは何でしょうか?
Y:「店頭のスタッフは長い人が多くて、彼女たちに支えられている部分も大きいです。デザインを頑張って、彼女たちが喜んでくれると嬉しいし、いい商品を作らなきゃダメだなって思います。彼女たちが喜んで、お客様が喜んでくれるというのがすごくモチベーションになっています」
35年を振りかえって、思い出深いことは何でしょうか?
Y:「周年イベントが印象深いですね。20周年のときは、お客様の中からミューズを決めるコンテストを原宿でやりました。『メゾピアノのどこが好き?』と聞くと、子供ながらにたどたどしい言葉で『着ていると嬉しい気持ちになる』『お店のお姉さんが優しくて、自分を応援してくれて。お姉さんが選んでくれたものを着るとみんなが褒めてくれる』って。もう私はその子供の言葉に泣きそうになって印象深いですね。あと、30周年ではお客様たちが主催になりインスタなどで全国からお子さん達を呼んで、名古屋でお祝いパーティーをやってくれることになったんです。そこに私を呼んでくれたんですよ。パーティーしてファッションショーまでやってくれて。本当にありがたいなあと思います」
今後、メゾピアノはどのようなブランドでありたいでしょうか?
Y:「ここまでやってこれたのですが、35周年を機にもう一度ブランドのあり方を考えようと。各地の百貨店に店舗がありますが、どこにでもあるものではなく、スペシャルであって欲しいと。例えば、昔にあったドレスのようなものを作ったり、セミオーダー的なものをやるとか。トレンドのものがあったとして、ただそれが他と同じようなものではなく、素材だったり、形へのこだわりを追求していくことが今の時代こそ必要だと思います。そうやって差別化することによって、生き残っていけると思います」
ディレクターにとってファッションはどのようなものでしょうか?
Y:「気持ちを上げるものです。例えば美術館に行くときは、展示のテーマにあわせた服を着ます。DIOR展なら一応そういう格好で行ったり。その日どこに行くかでコーディネイトを決めますね。あと、何か疲れたなという時は、わーっと元気な服を着ますね。まあ、地味な服を持っていないんですけど(笑)」
もの作りの原動力となっていることはなんでしょうか。
Y:「自分が想像しているよりも想いを入れてくれている方が本当に多くて、いろいろ頑張ってやってきたことがよかったかなと思います。年はいってますが元気なので。こういう物づくりというのはどこまで続けられるかわからないですけど。また、自分で物を作るのが好きで、阪急うめだ店でチャリティーブライスといって各ブランドで人形のブライスを作るというのがあるのですが、何度もトップをとりましたよ。金額が一番高いやつ。そういうのは頑張っちゃうんですよね。すごく楽しいです。逆に、同じことをずっとやっているのは嫌ですね、苦痛です。あと、20歳くらいからほぼ毎年誰かのウェディングドレスを作っています。人の為に喜んでもらえるものを作るのは好きで。自分が持っている着物を全部着せてあげたりとか。人が綺麗になって可愛くなるってことのお手伝いをするのが好きなんです。知り合いの子供の七五三の付き添いで、似合いそうなものは沢山持っているので、着せてあげたりとか。頑張ってやっちゃうんです、そういうお人好しなところがあります」
デザイナーになりたいと思われたきっかけも人の為に作って喜んでもらいたいということでしょうか?
Y:「そうかもしれません。小さい頃にぬいぐるみを作ったりしていて、手先が器用なんですよね。それに恵まれたといいますか、そこは親に感謝しています。手が動かなくてもう作れないというのが一番嫌かな」
そして、質がいいものを作って人を喜ばせたい。
Y:「そこにつながるかもしれないです。たまたま神様が手先が器用で服づくりができるようにしてくれましたし、プライベートでもそうですが、普通だった子が可愛く変身する、みたいなのはすごく楽しいなと思います。そしてその子が周りから『すごく可愛いね』って言ってもらえたり。そういうことのお手伝いをしたいというのが根底には流れていると思います」